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特集:第13回 松下幸之助人生をひらく言葉

「人生、一つのことにくよくよしない」

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 自分の思うようにいかない、こと志と違うというようなことがありますね。しかし、それがまた幸せな場合があるわけです。世の中が百とすれば、自分で分かることはそのうちの一つである。九十九は、ほんとうは分からないんです。あとは暗中模索というか手探りですわ。分かっている一つで方針を立てても九十九の面が分からんのやからね、なかなかうまくいかないことがある。だからぼくはこと志と違っても、あまりくよくよしないほうがいいと思うんです。そうでないと疲れますわ、人生ね。

松下幸之助は、

家庭の事情で九歳のとき、尋常(じんじょう)小学校を四年で中退、単身郷里の和歌山から大阪船場の商家に奉公に出ることになりました。
 最初に入った火鉢屋が三カ月で店を閉めたため、その紹介で自転車店に入り、そこで朝早くから夜遅くまで働きました。
 朝早く店の門口の掃除をしていると、向かいの店の子どもが、「行ってきます」と元気よく学校に出かける。その姿を見て、幸之助は〝ぼくも学校に行きたいな〟といつも思っていたと言います。
 そんな、幸之助が十一歳のときのことです。大阪貯金局で給仕の募集があることを聞いた母親から、「幸之助も今のままではこれから先、読み書きも不自由だろうし、この際、給仕として貯金局に勤め、夜、近所の学校へ行って勉強してはどうか」という話がありました。
 この話に幸之助が喜ばないはずがありません。夜学に通って、勉強ができるということは、窮屈な奉公生活をしている幸之助にとって何ものにもかえがたい喜びでした。そこで、ぜひそうしてほしいと母親に頼んだのでした。「それではお父さんに話して、お父さんがよければそうしましょう」ということになりました。
 しかし、しばらくして会った父親はきっぱりとこう言いました。
「わしは反対じゃ。奉公を続けてやがて商売をもって身を立てる、それがいちばんよいと思うから、辛抱して続けなさい」
 その言葉に、幸之助はどんなに落胆したことでしょうか。
 しかし、父の勧(すす)めに従って十五歳まで奉公を続け、そこで商売の基本や勘所(かんどころ)を体得していきました。
 それが後年非常に大きな力となったのです。また幸之助は、学問がなかったこと、病弱であったことで、若い社員に仕事を思い切って任さざるをえず、それが人を生かすうえでまたよかったと述べ、こう言うのです。
「人生、何がどうなるか分からない。だから、一つのことにくよくよしないほうがいい」
 様々な苦難を味わってきた人の〝人生の知恵〟と言えるのではないでしょうか。


「いっぺん約束したもんは...」

自転車屋(当時は超高級乗り物)「五代商店」の丁稚をしていた際、蚊帳問屋「鉄川」の注文を受け、自転車1台を持参。商売上手の主人から「現金やさかい1割引きやで」と値切られ、承知して帰りますが、本来は5分引きであったため、番頭に思いきりひっぱたかれます。顔面蒼白になった松下でしたが、珍しく必死になって言い返しました。「いっぺん約束したもんは、ほごにはできまへん。いやだす!」奥で聞いていた五代商店の主人五代音吉は、大笑いしながら出てきて、「こいつ、商いの道知っとるで」と、頭をコツンとたたきました。数日後このやりとりを知った鉄川の主人は感心し、今度は5分引きで10数台も注文してくれます。この「いっぺん約束したもんは...」が、彼の生涯守り続けた松下商法の哲学です。

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松下幸之助氏とは、中村社長が尊敬する人物の一人。
パナソニックの創業者である松下幸之助氏が生前に語られたお言葉は英知と洞察にあふれています。
この特集ページでは、毎号ひとつずつ皆様にご紹介いたします。(PHP出版の書籍より)

【松下幸之助】日本の実業家、発明家。
パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者である。異名は経営の神様。自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

PHP総合研究所 研究顧問 谷口全平
松下電器の創業者である松下幸之助は、資金も学問もなくしかも病弱。
「徒手空拳」ですらなく、マイナスからの出発であった。
にもかかわらず、かにして成功を収めることができたか?
本書は波瀾に満ちた94年生涯で語られた【人生をひら言葉】を軸に、松下幸之助の信条や経営観、人間としての喜びを解説した。「勝てばよし」がまがり通る今日、「なぜ生きるのか」を問う人生の書である。