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特集:第8回 松下幸之助人生をひらく言葉

「難儀はあるけど苦労はしてまへん」

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ぼくは難儀はあるけれど、苦労ちゅうもんはあまりしてまへんな。難儀というやつは、ぼくは食うに困ったことあります。それから朝早うから晩遅うまで働かないかんとか。あるいは病気して収入が得られんとか......。私ら若いときは日給制でしてね。勤務すればくれますけど、休んだらくれまへんやろ。病気したらたちまち生活に困りますねん。これはみんな難儀したわけですな。始末は簡単ですわ。身体さえ丈夫になれば、働けるんですからね。心配といえば心配やけど、考えてみれば簡単ですもんな。

昭和四十年、松下幸之助が七十歳のとき、松下家の蔵のなかから一束の古い書類が出てきました。それは松下が十五歳から二十二歳まで職工として働いていた大阪電灯での十数枚の辞令と、独立して松下電気器具製作所を創業した頃に何回か利用した質屋の通い帳でした。
〝よくぞこのようなものが残っていたものだ〟と驚きながら、松下は一枚一枚懐かしく見ていきました。
 三ヶ月の見習い期間を過ぎ、初めてもらった辞令には「職工ヲ命ズ 但日給金四拾参銭支給 明治四十三年十二月二十一日」とありました。また退職するときもらった辞令には、「明治四十三年八月雇入以来満六年余誠実勤続二付助手職工規則第三十一条二拠リ退職手当金参拾参圓弐拾銭ヲ支給ス 大正六年七月三十一日」と記されていました。
 退職金を元手に夫人とともに改良ソケットの製造販売を志しましたが、思うように売れず、風呂代にも事欠くほど困窮に陥りました。質屋の通い帳はその頃のものですが、大正六年の四月から翌七年の七月まで、十三回にわたって夫人の指輪、帯、着物までもが質に入っています。
 松下は当時のことをこう記しています。
「今から考えてみると当時の数年間、われながらよくがんばったものだという気がする。しかし、当時のぼくは、身体もそれほど丈夫でなかったけれども、ただ一日一日を精いっぱい働こうということで、それほどの苦労にも感ぜず、むしろ生きがいを感じつつ、電気工事やソケット製造の夜業に取り組んでいたように思う」
 松下にとって、苦労とは苦しいという心の状態であり、難儀とは金に困ったとか病気で寝こんだとかいう客観的事実でした。
困ったけれど、「こけたら立てばよい」と、前途に大いなる希望を抱いて懸命に夫人とともに努力を続けていた青年松下幸之助。二人のいちばん充実していた時代だったのかもしれません。
 大阪電灯時代の辞令や質屋の通い帳は、今も松下家に家宝として大切に保管されています。

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大阪電灯株式会社(大阪電燈株式會社、おおさかでんとう)は、明治から大正にかけて存在した日本の電力会社(電灯会社)。関西電力管内にかつて存在した事業者の一つ。
1910年(明治43年)、満15歳の秋、彼はいよいよあこがれの電気事業へと第1歩を踏み出したのである。
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【松下幸之助】氏とは、中村社長が尊敬する人物の一人。
パナソニックの創業者である松下幸之助氏が生前に語られたお言葉は英知と洞察にあふれています。
この特集ページでは、毎号ひとつずつ皆様にご紹介いたします。(PHP出版の書籍より)
【松下幸之助】日本の実業家、発明家。
パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者である。異名は経営の神様。自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

PHP総合研究所 研究顧問 谷口全平
松下電器の創業者である松下幸之助は、資金も学問もなくしかも病弱。
「徒手空拳」ですらなく、マイナスからの出発であった。
にもかかわらず、かにして成功を収めることができたか?
本書は波瀾に満ちた94年生涯で語られた【人生をひら言葉】を軸に、松下幸之助の信条や経営観、人間としての喜びを解説した。「勝てばよし」がまがり通る今日、「なぜ生きるのか」を問う人生の書である。