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vol.93 特集:第26回 松下幸之助人生をひらく言葉

「寸鉄を帯びずして敵を制するような庭に」

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 いちばんいい方法は、相手も傷つけず、自分も傷つかずして、そしてわが主張を相手に入れる。まあ塚原卜伝(ぼくでん)が無手勝(むてかつ)流ということを言いました。何にもせずして勝つということが、いちばんええんだと、こういうことです。一刀も使わず、一矢(いっし)も放たずして、そして勝負に勝つということがええ。わが主張を相手に認めさすことであると。まあこれは神業(かみわざ)であるかもしれませんが、そういう戦をしなくちゃならんということが、戦をするもんの心がまえでなくちゃならんと思うんであります。

松下幸之助が

大阪船場の商家で丁稚奉公をしていた頃、食事を終えたあとで店にある講談本を読むのが楽しみの一つでした。そのなかに『無手勝(むてかつ)流』というのがありました。
 それは、このような話です。室町時代後期の剣豪、塚原卜伝(ぼくでん)が旅の途中、渡し舟のなかで武者修行から真剣勝負を挑(いど)まれます。これは面倒だと思った卜伝は小さな島があるのを見つけ、「陸に上がっては従来の皆さんにご迷惑。あの小島でお手合わせをいたそう」と相手を先に降ろし、船頭の竿(さお)を借りるや舟を突き放す。置き去りにされてあわてるその武士に、「戦わずして勝つ。これが無手勝流だ」と言ったというのです。
 松下はこの話は商売、経営にも通ずることだと考えていました。
 つまり、あまり金や手をかけず、合理的、効率的に経営を行なって成果をあげるのがいちばんいいというわけです。
 実際あるとき、四人の社員で他のいくつかの会社にうまく協力してもらいながら、大きな成果をあげている社長に会い、「これこそ無手勝流。やり方はいくらでもあるもんだ」と感心をしています。
 昭和三十六年、松下が社長から会長に退いたときのことです。
 それまで会社再建のためにおろそかになっていたPHPの研究にさらに力を入れたいと、その本拠になる静かな場所を探し求めました。幸い、京都東山山麓に千五百坪(五千平方メートル)の邸宅を見つけ、それを真々庵と名づけ、そこに大阪からPHP研究所を移したのです。
 真々庵は明治から昭和初期にかけての名作庭家、七代目小川治兵衛(じへい)の手になるものでしたが、かなり荒れていました。そこで松下は造園家のK氏に頼み、池を広げたり、茂っていた灌木(かんぼく)を間引き白砂を敷いたり、自分なりの考えで手を入れました。そのとき、K氏に松下が言ったことは、「寸鉄(すんてつ)を帯びずして敵を制するような庭にしたい」ということでした。
 K氏も最初はそれがどのようなことなのか分からなかったと言いますが、ハタと気がつき、できるだけ今まであったものを生かして、簡素に整備をしたということです。

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▲「真々庵」...しんしんと静か、雪がしんしんと降る、真実・真理を追求するという意味があるそう。

「どうしたら人間の苦しみをなくし、正しい、平和な社会が築けるだろうか」
幸之助氏は、「この世に物心一如の繁栄をもたらすことによって、真の平和と幸福を実現しよう」(Peace and Happiness through Prosperity = PHP)と決意され、PHPの実現方法を研究し、その考えを世間に広める機関として「PHP研究所」を設立されました。


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松下幸之助氏とは、中村社長が尊敬する人物の一人。
パナソニックの創業者である松下幸之助氏が生前に語られたお言葉は英知と洞察にあふれています。
この特集ページでは、毎号ひとつずつ皆様にご紹介いたします。(PHP出版の書籍より)

【松下幸之助】日本の実業家、発明家。
パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者である。異名は経営の神様。自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

PHP総合研究所 研究顧問 谷口全平
松下電器の創業者である松下幸之助は、資金も学問もなくしかも病弱。
「徒手空拳」ですらなく、マイナスからの出発であった。
にもかかわらず、かにして成功を収めることができたか?
本書は波瀾に満ちた94年生涯で語られた【人生をひら言葉】を軸に、松下幸之助の信条や経営観、人間としての喜びを解説した。「勝てばよし」がまがり通る今日、「なぜ生きるのか」を問う人生の書である。