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vol.103 松下幸之助 人生をひらく言葉
「天国はいたるところにある」
やっぱり経験してみんと分からんですね。苦しいと申しますか尋常ならざるところに一定期間おって、そして平常な場所へ出てきたら、その場所が天国であるという感じがするんです。ひもじい思いをせんことには、腹が十分に満ち足りた喜びというものは味わえないです。貧しさというものを知ったときに、そういうことが味わえるんやないかという感じがします。私が今日多少とも成功しているということならば、そういう体験を数多く積んできたということによるんやないかという感じがするんです。 |
松下幸之助は
十五歳で五年半勤めた五代自転車商会を辞め、二十二歳で独立して事業を起こすまで、大阪電灯で配線工として働いていました。当時は電気がだんたんと一般の家庭にも引かれるようになって、松下も工事担当者としてさまざまなところに配線に回っていました。
夏の真っ盛りの暑いときのことです。松下は大阪下寺町というところにある寺のの本堂に電灯を取りつけに行くことになりました。下寺町はその名の通り、築後、百年、二百年、古いものでは三百年も経っている寺がたくさん並んでいる町です。
行ってみると、その寺もやはり古い、立派なお寺でした。本堂に電灯をつけるためには天井の裏に入り、配線をしなければなりません。松下が天井板をはずして天井裏に入ると、夏の暑い盛りのこと、屋根は焼けて、なかはまるで蒸し風呂のような暑さで、すぐに汗がたらたらと流れてきます。おまけに、二百年は経っている天井裏ですから、埃が三、四センチも積もっていて、動くたびにその埃がボワッ、ボワッと立ち上り、かいた汗に付着します。すぐに顔や腕が真っ黒になって、気持ちが悪いことこの上もありません。しかし、これも仕事です。何とか配線を終えて、入った同じところから本堂に降りると、非常に涼しく、何ともいえない爽快感を味わったと言います。
『ほんまに気持ちがええわ。ここは天国や。天国はどこにでもあるもんやな』
このような数々の厳しい体験を経て、松下は、『多少困難があったほうがより大きな生きがいや喜びが感じられるものだ』と思うようになっていきました。
実際、事業経営のなかでは、「経営者の仕事は心配すること。そこに生きがいを持てなければ経営者とはいえない」と言い、みずから経営上の問題点を改革するために心血を注いできました。また、晩年は、日本の現状に危機感を持ち、「日本の窮境は、また自分の生きがいにもつながっている」と、日本の国をよくしていくための活動に情熱を燃やしてきました。
お互いに、何の不安もなく、心配もない、そのような境遇にあこがれることがよくあります。しかし、それでは生きる真の喜びは生まれてはこないでしょう。やはり、地獄ともいうべき厳しさや困難に直面し、それを切り抜けていくところにこそ、人間としての充実感や張りのある生活、つまり天国があるのでしょう。
↑大阪/下寺町:左(東)手が南北に伸びる上町台地の西側の崖、手前右手から奥(南)へ伸びる松屋町筋に挟まれた空間に列のように寺がつづく下寺町。
様々な和建築、門構え、緑があり、都会離れした景観が続く。
非日常的な景観は、一種のテーマパークのよう。
これは明治・大正期でもそうだったらしく、この界隈は昔からの行楽地でもあった。
普通は檀家などの関係で寺が隣接することは珍しかった。
秀吉が、城の防備のため、また町中で人を焼くのを避けたため、 寺ばかりを集めた「寺町」ができたという。