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vol.109 松下幸之助 人生をひらく言葉
「病気と仲よく」
病にふせっている人にこんなことを言うんです。「ぼくの体験から言えば、病気というものは恐れてはいけないな。恐れ遠ざけていれば、後から追いかけてくる。病気と仲よく親しんで積極的に近づいていけばいくほど、向こうが逃げていく。病気と仲よくなれば、しまいに病気のほうから卒業証書をくれるものだ。病気を大切にしてやらないといけないな」要するに、不健康者が不健康を嘆いてばかりいてはいけないわけで、それではますます悪くなる。いっさいの不幸もそこから生まれてくるのだと思いますな。 |
松下幸之助が
大阪電灯で配線工をしていた頃のある暑い夏の日のことでした。
海水浴に行った帰りにどうものどの調子がおかしい、そこでパッとタンを吐くと真っ赤な血が混じっていたのです。幸之助は『ついに自分にも来たか』と一瞬青ざめてしまいました。
というのも、松下は八人兄弟の三男、末っ子に生まれていましたが、そのときすでに五人の兄姉が肺結核で亡くなっていたからです。
松下は早速その足で医者のところに行き、診察を受けました。 「あんた、肺尖カタルや。それもかなり進んでますな。少なくとも半年ほど会社を休んで、郷里に帰って養生することやな。このまま放っておいたら生命を落としますよ」
しかし、すでに父も母も亡くなっていて、帰る郷里がありません。その上、当時は健康保険もない時代です。松下は日給で働いていましたので、休めば生活ができません。ゆっくり療養できるような恵まれた境遇ではなかったのです。
そこで、やむをえず、三日勤務して、熱が出てくれば一日休むという状態を一年ほど続けました。
しかし、『悪くなればそれも運命だ』と心に決めたのがよかったのか、不思議なことに病気はそれ以上進まず、悪いなりに小康を得てきたのです。
二十二歳で独立した一つの動機も、『このままでは身体がもたない。商売であれば、自分が休んでいるあいだも、嫁さんが働いてくれるだろう』というところにありました。
実際、事業を起こしてからもたびたび病にふし、病床から部下に指示をしています。このような状態が太平洋戦争が終結した五十歳の頃まで続いたのですが、松下はそのことがかえってよかったと、次のように言います。
「不健康ゆえに先頭に立ちたくとも立てない。そこでいわゆる番頭を使うということになる。番頭を使えば、十人でも百人でも使えるし、非常に多くの仕事ができる。一人のできる仕事なんてたかが知れている」
冒頭の言葉も、長く病とつきあってきた人ならではの心境ではないでしょうか。
「肺結核」=肺に結核による感染病巣ができると、多くの人は免疫ができて治癒しますが、抵抗力の弱い人は結核菌が肺の中で増殖し、さらに進むと肺に空洞ができます。
空洞の中で菌はどんどん繁殖し、痰の中に混じって咳やくしゃみによって空気中に吐き出されるようになる(排菌)と他の人にうつす危険性も大きくなります。
この結核菌が活動し発病している状態を活動性肺結核といいます。
風邪と同様な症状が頑固に持続する場合は、活動性の肺結核が疑われる場合があります。
戦前は猛威をふるっていた結核も抗生物質の開発により一時は過去の病として忘れかけられていましたが、最近は海外から持ち込まれたと思われる薬剤耐性の新型の結核が報告されており患者数も増えています。
また、症状が収まり、排菌が確認できなくなった状態を陳旧性結核と呼びます。
陳旧性結核は症状が収まって何年も経てから再発をすることもあるため、年余にわたる経過観察が必要です。(「診療所検索くん」より)
「肺尖カタル」=肺尖部の結核性病変。肺結核の初期症状。
また、肺結核が治りにくかった時代には、ぼかしていうのにも使われた。
カタルという言葉は古い医学用語。