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vol.112 松下幸之助 人生をひらく言葉
「挨拶は毎日の暮らしの潤滑油」
文箱を持って親戚の家へ行ったら、まず時候の挨拶をする。手をついてこういうように話をせよ、とちゃんと教えてくださる。考えてみれば、それは非常に大事なことである。人間は人とのつきあいにおいても、ただ用件だけを終えればそれでいいというわけにはいかない。やはりなんとなしに潤いのある立ち居ふるまいをすることによって、その用件をなごやかにすますことができる。用件だけ伝わればいいんだからと、「この文箱を開けてみたまえ」というようなことを言っていたのでは具合が悪い。 |
落語の世界で、
商家の主人が店の丁稚さんをお得意先に使いにやるときに、口移しで口上を教えるくだりがよく出てきます。
「一度佐兵衛が伺いますはずでございますが、ご無沙汰をいたしております」
「え、一度、あの、佐兵衛さんが伺いますはずでございますが、ご無沙汰を...」
「違う違う、佐兵衛でええ。佐兵衛さんとさんづけやと、先さんに失礼にあたります」
この話は、それから丁稚さんが主人を「佐兵衛」「佐兵衛」と呼び捨てにし始めて、笑いを呼ぶことになるのですが、松下幸之助も、九歳から十五歳まで、大阪船場の宮田火鉢店と五代自転車商会に奉公していたときには、親方や奥さんからさまざまなことを身をもって教えられました。
それらには、火鉢を磨いたり自転車を修理するといった技術的なことだけでなく、ものの言い方や挨拶の仕方といった、共同生活に必要な人間としての基本的な心がまえも含まれていました。
たとえば、親方の親戚に、文箱に入れた手紙を持って使いに行く。
そのときには、まず時候の挨拶から入らなければなりません。奥さんから、
「『五代からまいりました。きょうはお天気がまことによろしゅうございます。皆さんご機嫌いかがでございますか』と、手をついて言うんですよ。一ぺんやってごらん」と言われ、奥さんの前で練習をする。
そして実際に、先方に出向き練習してきた挨拶をする。
「ご苦労さんでしたな。よく分かりました。帰ったら了承しましたと言っておいてください。まあ、これはきょうのお駄賃ですよ」
そう言われてもらう一個のまんじゅうの、なんとうれしかったことか、と言います。
そのようにして教えられたことを一つひとつ実行しつつ、お得意先との人間関係にもまれながら、人情の機微を会得していきました。
そして、一見ムダとも思えるような挨拶も、人間関係をスムーズにしていくうえで欠かせないものだということを実感していくのです。そうしたことを実感し、身につけたことが、「商売するうえで非常に役に立っている。だから、私は船場学校を卒業したようなもんですな」と言います。
松下は後年こう書いています。
「『ゆうべは寒かったですね』という、お互いにいたわりあう気持ちから出たこの挨拶で、あるいは『毎度お世話になっています』というこの感謝の気持ちから出た挨拶で、お互いの用件に入る。仕事がスムーズに動き出す。だれが考え出したのでもない。私たちの遠い祖先から伝わってきたこの挨拶というものは、いわばお互いの毎日の暮らしの潤滑油とでもいった尊い働きを果たしているのである」
だから、「お寒うございます」と言ったところで暖かくなるわけではない、という考え方は落語のなかだけにしたいものだと言うのです。
松下は商売において目に見えない人間の心というものを非常に大事にしていました。心の高まりがないとまた物も生まれてこない、経済活動もスムーズに進まない、『物心一如』物と心とは密接につながっていると考えていたのです。