平成28年3月 悠久の大義

  • 投稿日:2016年 3月25日

武士道の

本質は美である。
日本人の価値観は、美意識にあると梅原猛は言う。
日本人は、真善美の価値基準の中で美に重きを置く。
真でも、善でもなく。美である。
美しく死にたいと日本人は願う。
武士というのは、戦士である。
つまり、戦うことで生活をしている。
戦士の生き方は、矛盾している。
戦士は、生きんが為に、死を賭して戦うのである。


武士道

武士というのは、戦士である。つまり、戦うことで生活をしている。
戦士の生き方は、矛盾している。
戦士は、生きんが為に、死を賭して戦うのである。
戦士にとって生と死は表裏の関係にある。
武士にとって生き甲斐とは、死に甲斐でもあるのである。美しく死ぬために、生きる。
そんなところが武士道の根底にはある。それが潔さに通じるのである。潔さは、潔白、純潔にも通じる。 それが美学である。
事の是非ではなく。又、成否でもない。何が美しいかが基本となるのである。結果ではなく。
心の有り様が重要なのである。それは騎士道にも通じる。
何が、自分をそうさせるのかが重要なのである。愛なのか。義なのか。忠なのか。理想なのか。
夢なのか。それが大切なのである。
吉田松陰や坂本龍馬のような人間が今目の前にいたら、見ていて滑稽で、
とても付き合いきれない愚直な者にしか見えないだろう。
歴史的評価など後付なものに過ぎない。武士は、常に真剣に生きている。
後世人はどう思うか、周囲の人の目など気にしていたら義を成就することはできない。
なりふりかまわず己の信じる道を追い求めていくのが武士である。
武士道や騎士道の一つの極致はドンキホーテである。それは、他者から見ればある種の狂気である。
喜劇でもある。しかし、純粋に生きることでもある。私は、その様な人を目標として生きている。
武士道とは、死ぬことと見つけたりと言う。しかし、だからといって武士道が死を目的化していると思われたら困る。
死というのは、結果である。死は究極的結果である。人間いつかは誰もが死ぬのである。
それを大前提として生きているか、いないかの問題である。
死を覚悟するという事は、結果に囚われないという事を意味する。問題なのは、その動機である。心根にある。
死を美化したり、死を目的化したら士道の元は廃れてしまう。士道とは、先ず自分を生かすことにある。
生きて公の大義に尽くす事にある。それが忠である。
人生五十年。人の生には限りがある。だからこそ、後から来る者達を信じ、悠久の大義に殉ずる。
その時、大義と己の栄誉とが一体となり、不朽の名誉となる。それが限りある命を永遠に生かすことである。
故に、武士は、名を惜しむのである。名誉を重んじるのである。恥を知るのである。それが武士道である。
美しく死ぬということは、美しく生きると言うことを意味する。
生き甲斐というのは、裏がして言えば、死に甲斐でもある。
この一事において死んでも良いと思う事は、だからこそ生きているのだとも言えるのである。
いつでも死ねるという覚悟は、だから、今を、精一杯、生きようと言う覚悟に転化する。
いつかは死ぬのだという確信は、この一瞬一瞬に自分の総てを燃焼し、
自分の誠を尽くして生きていこうとする執念に昇華する。
生に執着し見苦しく生きるより、美しく死んでいくことを望む。
それこそ、生きることの極致だとするのが武士道である。
だから、武士は元服する時、切腹の作法を教えられるのである。
それは、大人として命懸けで守らなければならない男のけじめ、責任の取り方を学ぶ事なのである。
現代の日本人が描く、時代劇で違和感を感じるのは、主人公達が、何に殉じてきたのかが、欠けているからである。
革命という幻想に憧れ、反体制だけを標榜してきた戦後世代は、殉ずべき対象を持ち得ない。ただ、戦争に反対だ。
権力は厭だ。非暴力だ。責任はとりたくない。愛国心なんてばからしいと言っているのに過ぎない。
現代人が幕末物を描く時、声高に世直しだとか、倒幕だとかを叫ぶだけで、忠とか、義というものが抜け落ちている。
それは、戦後教育を受けた世代は、
欧米流の革命思想に被れているだけで武士としての素養を持ち合わせていないからである。
幕末の志士は、忠であり、義であると言えば、事足りたのである。
しかし、現代人には、忠も義もない。
ただ借り物の思想の上にのっかて見せかけの志を、感情的にがなり立てているに過ぎない。
その本質は、利己主義である。
自分達が醜いからと言ってこの世の中の総てが醜いとし、綺麗なものから目を背けているのに過ぎない。
醜さや弱さを肯定することによって自分の醜さや弱さを正当化しているのに過ぎない。
妙なリアリズムばかりを追求して、自分は真実を描いている錯覚に陥っている。
しかし、あるのは、鼻持ちならない傲慢さと、自己陶酔でしかない。
確かに、武士にも弱味や醜いところはある。しかし、自分の弱さや醜さと戦っているから武士は、武士たりうるのである。
最後に戦うべきなのは、自分なのである。克服すべきは、自分の醜さである。
武士は、忠によって死に、義によって死んでいったのである。
忠も義も解せない現代人が幕末の志士の生き様を描けるわけがない。
何によって生きるかは、何によって死ぬかと同義である。志によって生きる者は、志によって死にもするのである。
生きる為によって立つものは、死すべき原因ともなるのである。
政治に生きようとする者は、政治に命を捧げても良いという覚悟が必要である。
消防士として生きようとする者は、消防士として死ぬ覚悟が求められるのである。
そうでなければ燃えさかる炎の中に身を挺して飛び込むことはできない。
警官は、武器を手にする暴漢を取り押さえることはできない。
それが死を覚悟することである。死を覚悟したからと言って死を目的化するわけではない。
生きんが為に死を覚悟するのである。
そこに美意識が働くのである。
美しく咲いて、美しく散っていく。
それは死を必然として受け容れた時、生を死に至る道として受け止める事によってはじめて成就する。
生きることを死に至る過程としていかに美しく生きるかを突き詰めたところに、武士道はある。
死のうは一定、ならば、その定めを従容として受け容れ、
いかに己を尽くすかが生きることの本質だと武士は思い定めるのである。
死は、必定だと受け容れ、その一瞬一瞬に全身全霊をかけて断じる。未練を断ち切る。
それこそが決断なのである。生きるとは、気魄である。
断じられないのは、ただ未練。裂帛(れっぱく)の気合いを以て両断する。
その時、死に、その時、生きる。それが武士道である。
邪気を払い無心に決断する。それによって平常心を保つ。それが武士の心得である。
人生は夢よ。この世は、仮の住処、この身も仮の身、ならばいかに無駄を省き、綺麗に生きていくかである。
所詮、最期は一人。
日本人の言う綺麗とは、飾り気のなく、清潔、純粋に生きることである。
欲を断ち、生への執着を立ち、一心に義を思い。公に死す。そこに美学がある。
生きるとは、死に至る道に過ぎない。死は、抗うことのできない定めなのである。
死が定めならば、人に恥じる事のない事のない大道を歩む。堂々たる人生を生きる。それが武士の本懐である。
戦士と言葉から、猛々しさや荒々しさを思い浮かべる。確かに、武士は、猛々しく、荒々しい存在である。
しかし、猛々しさや荒々しさだけでは武士道は語れない。武士は、粗野では勤まらないのである。
武道だけに精通することが武士道ではない。武士は嗜みを重んじる。武士の嗜(たしな)みは美学である。
故に、形や体面を重んじる。
武士の嗜みは、清く正しく美しくあるための素養にある。
故に、武士らしい武士は、詩を読み、能を楽しみ、書や水墨画に堪能な者が多い。
又、死に臨んでは、志を辞世の句に残すのである。
言葉は、簡潔明瞭にして、無駄口をきかない。
常に、身につける物、下着を清潔にする。どこで、死んでも辱めを受けないように心懸ける。
それこそが武士の嗜みである。
服装は華美に走らず。清潔を保つ。きれいが美しいのである。いつ死んでも恥をかかないようにである。
又、服装を気にして、後れをとらないようにである。常に、いつも、その時に中るのである。それが嗜みである。
武士の嗜みは、日本刀に象徴される。日本刀の美と機能である。武士道とは、日本刀の冴えである。
武士は、刀を脇に置いて天下、国家を論じる。時には、激しい議論になることも覚悟しなければならない。
刀を脇に議論すると言う事は、いつ相手が抜刀して斬りつけてくるかもしれない状況で名誉をかけて議論するのである。
どの様な状況においても冷静沈着であることが求められる。それが克己心と自制心とを涵養するのである。
武士は、質実剛健を重んじ、虚飾を削ぎ落としたところに、美を見出す。
常に命を投げ出す覚悟こそ武士の本懐である。それは決して死に急ぐことではなく。平素の覚悟である。
その時に中りて迷うことなし。平常心を以て生と死に臨む。一期一会。一瞬に全てをかける。
死中に活を見出すのであって死を望むわけではない。生きることを考えて窮地に陥らないことである。
身を捨ててこそ生きる瀬もある。それが、もののふの覚悟である。
武士はいつでも笑って死ねる度量が求められる。
その為には、平素は、単純明快にして、心に悔いを残す物事を置かないようにする。
誰が見ても解りやすい生き方をする。一朝、事あれば、一切合切を投げ捨て立つ。時いたらば立つ。
己の全人生を死生の彼方に擲(なげう)つのである。そして、身一つで大事に臨む。未練こそ仇(かたき)である。
何事も素直に受け止める。常に恬淡とし、い
ざという時に臨む心がけでいる。常住戦場なのである。
常日頃から迷わないように修行する。大切なのは生きる姿勢である。平素からの覚悟である。後れをとらないことである。
嘘を決してつかない侍の話がある。
なぜ、その侍が、嘘をつかないのかというと、武士というものは、
一世一代の大嘘をつかなければならない状況に追いやられる時があるやもしれない。
その時、誰も自分の嘘を信じてもらえなければ何の役にも立てない。その時のために、
ひたすら嘘をつかないでいるというのがその武士の言い分である。それが武士の平素の心得である。
重要なのは、決断である。速やかに決断をして行動に移る。それが武士の嗜みである。
最悪の誤判断は、不決断である。どんな状況においても決断力があれば自分を保つことができる。
自分の意志で大事を決断できなくなった時、人は自分を見失うのである。自分を最後の最後まで保つ力は、決断力である。
戦後我々は、よく考えてから決断しなさいと躾られた。それは間違いである。考えたら決断はできない。
決断をしてから考えるのである。迷いこそ禁物なのである。
そして、一度決めたら断じてこれを行う。反省することは大切だが悔いは残さない。だから素朴を大切にする。
平素の勉学や修行が大切なのである。常に覚悟だけはしておく。
武士も、武士の家族もである。事に中りて心乱れ、姿を乱す事こそ最大の恥辱である。
いざという時に備えて、心構えだけは、常にして置く必要がある。覚悟はできなければならないのである。
抜刀する気合いで決断をする。刀は、武士の魂という。
つまり、刀は、武士道の象徴である。刀を抜いた瞬間から死命を越えるのである。
一切合切の未練を断ち切り、一途に、忠義のみを考える。
この場合の忠とは誠である。無条件の服従を意味するのではない。
無心に己の真実に忠実になることだけに集中する。
それが刀に手をかけるという事である。刀に手をかけた瞬間から覚悟を決める。
結果を恐れず、ただただひたすらに、自分の義を貫き通す。
後は、ただ抜刀するだけであるそれが決断である。
決断力は修練でしか養えない。
決断できない時、私は、自らを叱責する。ただ一言未練と。何を迷うと。
死に怯えて気後れし、見苦しい生き方をしないよう。自分の信念を曲げてまでも生きようとはしない。
それならば潔く、自分の人生に決着をつける。
人に言い訳をしながら生きるような恥さらしな生き方はしないよう、常に、己の襟を正して生きていくのである。
自分に決着をつけると言っても逃げたり、自殺したりすることを意味するのではない。
逃げ出そうとする、妥協しようとする自分と戦うことを意味するのである。
そして、戦って戦って自分が自分として生きられなくなった時、はじめて死を選ぶのである。
安易に死を選ぶのは恥辱でしかない。
克己復礼。最も重んじるは、己に対する礼である。
自分とって何が正しく、何が間違っているのか。
今ここで、暴漢に襲われている女性を見つけたら自分はどうするのか。
不正を遭遇したらどうするのか。悪者に加担しろと強要されたらどうするのか。
友が、間違った道を進もうとしたらどうするのか。自分の名誉が傷つけられた時どうするのか。
いつ、何時、その様な事態に遭遇するともかぎらない。だから、常日頃からいざという時の心構えを定めておく。
友が間違った道へ進もうとしたら私は、友情をかけて友を諫める。
諫めれば友情は終わるかもしれないが、諫められなければ、最初から友とは言えない。
信義を裏切り、不義に加担し、義理に背いて、人としての道に逸れ、
礼節を棄てなければ生きられない様な状況に陥った時、ただ、従容として死を受け容れるのである。
それは己の誇りが保てなくなるからである。
それが武士道である。見苦しく生きる道を棄て、ただひたすらに己の義に徹した時、結果として死に至るのである。
死を目的としているのでも、死を美化しているのでもない。それは結果に過ぎないのである。
それは道を求めた結果である。美しさの根本は清廉である。
最後まで護るべきは、名誉である。誇りである。
不名誉な生き方を強要されるくらいならば、戦って死を選ぶ。それが武士である。
それは、自由か、しからずんば死かの選択と同じである。不名誉な生き方こそ不自由な生き
方なのである。
ご奉公という言葉も最近では死語である。しかし公に奉ずることこそ武士の生業である。
公の意識を失えば士道は成り立たない。奉公という言葉が死語たのも士道が廃れた証左である。
何も武士だけが道を求めたわけではない。求道精神は、職人にも、商人にも、それこそ、無宿渡世人にもあった。
その現れは徒弟制度にある。職人の世界は、毎日が修行である。
終生修行である。終わりなき修行、道であるからこそ人は最期まで目標を見失わずに生きていけるのである。
つまり、人生は、終わりなき過程である。
日本人にとって職場は道場である。修行の場である。自己実現の場である。
道場とは、神宿る場所である。
神とは、自己を超越したところにあって、自分を自分たらしめる存在である。
自分にとって最も純粋で聖なる存在である。自分の良心である。己を写す鏡である。
故に、日本人は、仕事場に神棚を奉り、仕事に取りかかる際は、身を浄め、常に清潔を保つように心懸ける。
仕事場に入る時、神に一礼をし、祈りを捧げてから仕事にかかったのである。
仕事が終われば仕事場を掃き清める。掃除に始まり、掃除に終わる。仕事場においては、不浄不潔なるものを嫌う。
故に、日本人にとって労働は、単に糧を得るための生業ではなく。
仕事は、神聖なものなのである。仕事は、神への捧げ物なのである。神に対する感謝なのである。
仕事は、自分が、生きることの証でもある。
仕事に手抜きをしないのは、仕事こそ自己実現の手段だからである。
仕事に対して不誠実なのは、自分に対して不誠実なのと同じなのである。
仕事は、己の真を尽くす行いなのである。
だから、収穫を神に捧げ、祭るのである。
不誠実な仕事に、自分が納得しないから仕事を極めるのである。ただ、金のためだけに働いているわけではない。
それが日本人である。不誠実な仕事は、自らを辱める事でしかない。
日本人は、仕事に対して純真であり、純粋であり、一途であり、専心なのである。仕事こそ至上の行為である。
求道は、禅に似ている。
身を浄め。禁欲をし、ひたすらに仕事や日々の実践を通して道を極めるのである。
日本人は、今一度凛とした生き様を取り戻す必要がある。さもなければ、日本人は、日本人でなくなってしまう。
かくすればかくなるものとしりながら、やむにやまれぬ大和魂。
事に当たり為すべきをなす。なんぞ成敗を問はん。              吉田松陰

日本人にとって吉田松陰は、イエス・キリストのような存在である。



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