平成31年1月 悠久の大義

  • 投稿日:2019年 1月 7日


新年明けましておめでとうございます。

旧年中はひとかたならぬご厚情を賜り誠にありがとうございました。
皆様方におかれましては健やかなる新春をお迎えのこととお喜び申し上げます。
本年も何卒宜しくお願い致します。


人間魚雷「回天」

多くの先達の犠牲の上で今の豊かで、そして平和な日本に暮らさせていただいています。
年始にあたり、『感謝の念』でこの一年暮らせる様、「回天と私」倉重アサ子さんの魂の『言葉』を贈らさせていただきます。

~『回天と私』~  倉重アサ子

私と「松政」との因縁は長く、かれこれ四十三年余り、物心ついてからの人生の大半を「シゲ」という通称で、松政旅館の伝統の中で生活して参りました。
その間、いろいろな出来事や思い出は数限りがありませんが、とりわけ回天特別攻撃隊の方々とのめぐり合わせは、それからの私の半生の生き方を運命づけたような気がいたします。

忘れもいたしません、十六歳のとき生まれ故郷を後にした私は、山口市の後河原にあった上田屋という旅館に二年ほど勤め、大正十五年の三月五日に初めて徳山の「松政」へ参りました。折から徳山港には艦隊が入港していて、「松政」は海軍さんでいっぱいでございました。こうして「松政」と海軍との深い縁を知ったのでした。

徳山には海軍燃料廠がありました関係上、毎日のように艦艇が出入りしいつも大変な賑わいでした。
こんなわけで、永い歳月の間には海軍の将星の方々に随分お目を掛けて戴きました。こうしてペンを走らせていましても、今は亡き加藤寛治大将、高橋三吉大将、末次信正大将、山本五十六元師、南雲中将等それからそれへとたくさんの方々の面影がありありと泛んでまいります。

それは、大戦もいっそう苛烈となり敗色の濃い(もちろん当時の私たちには不明のことでしたが)確か昭和十九年の十一月七日だったと思います。徳山湾の大津島にありました「回天」基地の板倉少佐がお越しになり「今夜六時から六十人のすき焼会をするので用意を頼む」と申されました。その頃は野菜も果物も調味料にも事欠く有様で、用意などとても...ともうしあげたところ「物資は全部部隊から持参するから...」ということなので、結局お引き受けする事になりました。とは云うもののコンロもテーブルもなく全く困り果て、コンロは一つ一つを近所から借り、テーブルは思案のあげく雨戸をはずして大広間に並べ、どうやら準備が出来ました。

そのうち六時になりますと、基地の長井司令官を始め若い方がたくさんおいでになりました。後になってそれが出撃する特攻隊員の壮行会であることが判ったのでございます。それからは、戦局の急迫につれ次々に、壮行会が開かれました。
学徒動員の若い方々から、マフラーにする白絹が欲しいと望まれ、私の持っていたありったけの白絹を差しあげ、心から武運を祈ったのでした。中には私の肩にすがり、膝にもたれて甘える紅顔無垢の童顔にハッと胸をつかれました。未だ十七、八から十九才くらいの若い人ばかりで、厳しい訓練の明け暮れの中束の間の思いはやはり国許のお母さんだったのでしょうか...。

私を母さんのような気がするなんて、私によりかかるそのあどけなさを思いだしますと、今でも目頭が熱くなるのをどうすることもできません。
壮行会が終わると、人間魚雷「回天」に搭乗してそれぞれの目的地に向かい母艦の潜水艦を離れて、TNT火薬一、六トン炸裂と共に若い生命を何のためらいもなく海中に沈めてゆかれたのでした。私もこんな若い純心無垢な方々を、なぜ、こうして死なせなければならないのか...と、それこそ胸が締め付けられるような切ない思いでいっぱいでございました。

壮行会といえば、出撃の三日前に必ず「松政」で催されるのが常でした。出撃の前夜は、隊員達のほとんどが眠らないで手紙を書いたり、話に興じたりして、地上での最後の一夜を過ごすのが通例でした。翌朝基地からの公用便の方が私のところにも手紙を持って来て下さいました。
それが往きてまた還らざる特攻隊員の遺書として私の手許に残ったのでした。

こうした悲壮な訣別が続く折も折、昭和二十年の五月十日、徳山の第三海軍燃料廠が潰滅的な爆撃を受け、更に七月二十六日には再度の空襲により市街地の大半が灰燼に帰したのでした。七月の焼夷弾攻撃で「松政」も例外ではなく、玄関から表の部分は類焼しましたが、後側に当たる約三分の一程度は従業員必死の防火活動で幸い戦災を免れる事ができました。それこそあたり一面火の海の中で、なりふり構わず無我夢中でも猛火と闘ったときの恐怖は、二度と繰り返したくない苦い思い出でございます。それから幾ばくもなく終戦の日を迎えたのです。

ところで、回天特攻基地のあった大津島には、出撃後は新しい隊員が次々に補充されたようです。あれは何月だったかはっきり憶えておりませんが、終戦となった大津島基地に解散の日が来たのです。基地で終戦と解散の迎えられた隊員の方々の寂しそうな様子が、今でも泛んで来ます。

部隊の解散式には私も列席させて頂きましたが、なんとも名伏し難い雰囲気と感慨でいっぱいでございました。いよいよお別れのとき、一つのお約束をしたのです。それは最初の出撃記念日に当たる十年後の十一月八日には出来る限り徳山に集まろうということでした。

それから十年...どんなに待ち遠しい毎日であったことかー。そうして十年目の十一月八日、果たして何人、どんな方が来られるだろうか...と、期待や不安、憶測などでその夜は一睡もしないまま当日の朝を迎えたのでした。午前六時には静岡から小さい子供さんを連れて真先に到着されました。

玄関を開けるや否やいきなり「おかあさん...」と云われた時には、思わず涙がとどめもなく流れ、ほんとうに嬉し泣きに泣きました。こうして遠い北海道からも西の九州からも次々に集まられ、しばし思い出話に時の経つのも忘れました。十時になりますと皆さん揃って定期の便船で大津島へ渡りましたが、土井晩翠や芭蕉の詩句の一節を想い出さずにはいられないように、特攻基地跡は荒れるにまかせた無惨な姿を晒していました。無理もありません。限られた島の人たち以外に特攻基地跡なんて誰も知らないことですからー。ただ私と毛利勝郎様だけは、この十年毎年ひそかにここを訪れ、回天の英霊に回向していたのです。生僧当日徳山に集まる事の出来なかった方々は、東京に集合して皆さんが思い思いに寄書きし、わざわざ私へ送ってくださったそのお志を忘れることができません。これは確か昭和三十二年のことだったと思います。

海軍燃料廠跡地が出光興産に払下げられ、石油精製工場が建設されることになりました。燃料廠被爆時の廠長渡辺伊三郎様はご健在ですが、終戦後日本揮発油株式会社におられました。出光の一期工事は、出光佐三様が渡辺様に「燃料廠はあなたが焼いたのだから、あなたが工事をするようにー」と、冗談めいて申されましたエピソードを今も微笑ましい気持ちで思い出します。夜を日に継いだ記録的な工事も終わり、いよいよ昭和三十二年五月二十九日が竣工式の日でございました。

話はそれますが、出光様は「松政」をこの上なく可愛がって下さいました。この時も竣工式のために前々日の二十七日からお越しになっていました。ちょうど私たちは、当日が戦前の海軍記念日に当たりますので、生き残りの者が集まりまして、軍艦マーチをかけたり昔懐かしい海軍の歌を歌っておりました。余り賑やかなので、たまたま出光様を始め石田、大和、川端、平泉様他十二~三人でご会食中でしたが、「軍艦マーチでいったい何事か...」と訊ねられたのでございます。その時始めて大津島の「回天」のお話を申しあげたところ、出光様は大変驚かれた様子でした。「それでは写真か何かあるだろう...」とのことで、私がずっと大切に預かり保存してまいりました写真、短刀、それに戴いた遺書などをお目にかけましたところ再度吃驚なさいました。そして会食の皆様にもお目にかけられ「これはこのままではいけない。出光の工事の出来たのも祖国の礎となられた今は亡きこれらの方々のお蔭だ...東京へ帰り一人でも多くの人々にこの真実を伝えなければならないー」と仰有いました。私はこの事を毛利勝郎様にお電話して、早速出光様に逢って頂きました。

それから、今まで日の目を見なかった「回天特攻隊」の事が公になり、回天碑も出来るようになりました。今では回天記念館も完成し、基地跡は立派に整備され記念碑前は記念公園となり昔日の面影はありません。国は敗れても人の善意と真心は滅びることなく、純心無垢な若い回天特攻隊員のその一途な赤心を讃える数限りない声が、戦後二十三年目にこうして見事に結実したものと申せましょう。私も多年の念願が叶い、今は何も思い残すことはない心境でございます。

それに致しましても、出光様にお目に掛かりましたお蔭でこれが契機となり今まで名も知られぬ大津島の「回天」の真実が、幾度となくマスコミによって放映、報道され、また「回天」にまつわるいろいろな逸話が紹介されるなど回天への認識は高まり、国内はもちろん海外にまで深い関心が寄せられるようになりましたことは、私にとってこの上もない歓びでございます。

(更に二十八年経過)
今は思い出の徳山「松政」も時の流れに姿を消し、余生を草深い生まれ故郷の静かな一部屋で、田園自然を友として過ごします私にとって、唯一心の拠りどころとなりますのは、部屋の一隅にお祀りしてある回天のみ霊に、永年の習慣となっています朝夕の回向と、そして戦後から今も続いております生き残りの方々や御遺族の方々とのおりふしの交流の楽しみだけでございます。合掌
〈鳥巣建之助様編著予定の送付原稿から 昭和四十九年十月〉











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